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第二編 東京専門学校時代前期

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第九章 都の西北

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一 早稲田八景

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 北宋の文人画家宋迪は、中国の洞庭湖畔に八ヵ所の景勝の地を選んだ。世に「瀟湘八景」と言われるもので、これが我が国に伝わり、その後、各地に大小幾多の八景が選定された。そのうちでも特に有名なものは、滋賀県の「近江八景」であろう。

 ところで我が学苑の周辺にも八景があった。観ずる人によって選ぶ風景はさまざまであるが、晩香菊池三九郎(教授.二十五年英語政治科卒)などは、選して「早稲田二十四景詩」(『早稲田叢誌』大正八年三月発行第一輯二九一―二九三頁)さえ作っている。それぞれ副題をつけた七言絶句で、試みにこの中から巷間に伝わるものと関係が深い八景(圏点)を挙げておく。

鶴巻春帝 諸校競技 千歳荒池 江堤桜雲 目白新樹 金川花草 宗寺荒墳 牛林鵑語 駒留水螢 関口奔湍 稲祠凉月

姿橋星影 兵廠晴烟 蕉庵夜雨 八幡霊符 兜塚秋草 高田夕照 椿山霜葉 落合帰牛 馬場奔電 隈邸珍卉 赤城飛雪

戸山胡笳 学堂暁鐘

 紀淑雄(日本美術学校創立者.二十六年文学科卒)は、明治二十二、三年頃に発行された文学科生達の機関雑誌である同名の『早稲田叢誌』に、「早稲田八景」を選びその中に、早稲田暮蛙、目白残雪、芭蕉庵老松、長谷寺晩鐘の四景を挙げていると、同期生の不倒水谷弓彦は伝えているが(『早稲田学報』昭和三年一月発行第三九五号二五頁)、この雑誌が現在管見に入らないので、その他の四景は明らかでない。更に明治末には、学苑が学生から「早稲田八景」を募集したことがある。当選作は明治四十一年十一月発行の『早稲田学報』(第一六五号)に発表されているが、甲・乙・丙の三賞何れも清国留学生であった。学苑ではそれらに基づいて、独自の八景を選定した。目白桜雲、八幡烟雨、駒駐乱螢、関口飛瀑、落合帰牛、雑司紅葉、戸山霜月、学堂暁雪がこれである。

 今これにいささか注を加えると、目白は江戸川橋から国鉄目白駅にかけての丘陵で、古くは「白眼台」と言われた地帯。八幡は西早稲田の馬場下にある牛込惣鎮守で穴八幡のことである。駒駐は駒留橋のことで、源頼朝が馬を留めた故事に由来して付けられた橋名。関口飛瀑は、江戸川中流の関堤の通称大滝を言い、落合は江戸川の上流で、旧神田上水と妙正寺川が落ち合う今はなき牧草地帯。雑司は川柳に「人足も何千武州雑司ヶ谷」と詠まれた鬼子母神の境内。けやきの大木が全地域を覆い、晩秋の候、木の葉が色づく時、亭々とそびえる幾百の大木の頂上から、黄色い炎が燃え立って、ゴッホならでも中天を焦がすかと見まごうばかりであった。戸山は文学部の西に連なる丘陵で箱根山と呼ばれ、尾州公の下屋敷のあった所。今は戸山ハイツの高層建築が立ち並んでいる。学堂とは言うまでもなく我が学苑のことで、ここに言う暁雪は、前掲出の菊池晩香作るところの暁鐘に置き換えた方が判然とするだろう。

二 早稲田の杜

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 穴八幡から北へ、高田富士で有名な水稲荷から戸塚にかけて、緑の小丘が連なっている。都心を離れ、早稲田八景の名勝をはじめとして、数多い名所古跡に囲まれた、ここ下戸塚村は、それだけでも別邸を構えるにふさわしい土地であった。すなわち明治・大正・昭和の三代にかけて陸軍軍医界の大御所であった石黒忠悳の別荘は水稲荷の隣地にあって、杜鵑を聞く名所として知られ、彦根藩士で専修大学の創立者であった相馬永胤の別宅は戸塚の丘上にあり、湧き出ずる水量の豊富なところから甘泉園の名で有名であり、また今は早稲田中・高等学校の敷地となっている地の一部にかけて、その隣の早稲田町にまたがる広い土地には、犬養毅の邸宅が設けられていた。その他、今の文学部から理工学部辺りには参州西尾侯、安部球場には常州松岡侯の屋敷があった。

 この丘とは対照的に東には、その名も早稲田の低地が開け、川柳に「早稲田の畠槃特の墓のやう」と言われるほど、茗荷畑が連なっていた。ここに言う槃特とは釈迦の弟子の非常に愚鈍な人のことで、その死後墓を建てたところ、その周囲に茗荷が密生し、よって世に茗荷を食えば物忘れすると言われるようになり、これを引き合いに出して、茗荷の多産をもじってかく言うようになった。ところで、明治十五年頃の大隈は、忙中閑を得ては、この茗荷畑の尽きる一角に設けた別宅に清遊の日を送っていたが、この地はもと、高松藩主松平頼聡の所有地で、その父の頼恕が隠居生活を送っていた。それが後に三井家の手に渡り、更に転売されて、函館の貿易商人柳田藤吉の手に移った。藤吉は北海道の物資を内地に送ったり、また幕末には討幕軍の秋田藩の御用商人となったり、幕府軍の庄内藩の兵器弾薬等を調達したりして、巨万の財を築いたが、如何に商売とはいえ首鼠両端の矛盾した生活に漸く嫌気がさし、蓄財を挙げて社会事業に投ぜんとし、福沢諭吉や箕作麟祥に相談した。その結果、この両者の勧めに従い学校を起すことにし、庄内藩との取引で得た利益金四万八千両をこれに投じ、学校を維持しようと考えた。内ヶ崎作三郎(教授)は、この間の経緯を、藤吉の孫養子に当る校友柳田保三(三十四年英語政治科卒)から聞き、「早稲田校史の一挿話」と題して、これを『早稲田学報』第三百七十九号(大正十五年九月発行)に載せているから、抜粋しておこう。

幸にも早稲田に讃州高松藩の下屋敷が或る事情の下に三井家の所有に帰して居つた。依て藤吉君は早速三井家に談判して、学校創設の目的を述べて、土地建物の譲渡を請求した。然るに三井家は非常に此の事業に同情して無償にて譲渡いたさんと申出た。ここでも藤吉君一流の気性を発揮して、男一匹たる者が相当な地所建物を、ただで頂戴する訳には参らない。偶々三井家に預けて置いた米代の残金が三千六百両ほどあつたので、これで帳消しに願ひたいと述べて、当事者間に相談が纏つた。然るに買受け人の名義は江戸在籍の百姓に非らざれば官許を得る事が出来ない規則であつたので、栖原角兵衛氏に交渉して、其の息稲田小四郎氏の名義を借り受けて、藤吉君は其の財産管理人の資格で手続を終つた。兎に角其の建物は頗る立派であつたから其の儘学校に当る事が出来た。依て山東一郎氏に学校の管理を託した。山東氏は後に直砥と改名した。時は明治二年の二月、学校の名を北門社新塾と定め、生徒総数を三百人とし数名の教師を傭ひ入れ、無月謝無束修にて四万八千両を以て三年間維持し得る見込であつた。然るに生徒の志望者は仲々多く、山東氏一人にては手不足の感があつたから、幕軍脱走兵の一人にして当時漸く赦免を得たる松本良順氏を迎へて、山東氏と共同管理者たらしめた。又明治三年春函館に此の新塾の分校とも目すべき北門社郷塾を設けてやはり三年間維持した。 (四頁)

 この学校について、市島謙吉は、「此頃〔大正末年〕大隈侯の記念大講堂を建築する為に、大隈侯庭の一部分に基礎工事を起すに当り、下を掘つて見ると、沢山の埋めた杭が出て来た。技師の語るのに、慥かにここには相当の建物があつたに違ひないと言つてゐる。或は山東が此処に校舎を建てた跡かも知れぬ。」(『随筆早稲田』三頁)と語り、その存在を示唆している。

 さて内ヶ崎の報告書の中で注意すべきは、後に大隈の早稲田別邸となる地に開校された北門社新塾の塾長として山東一郎を推挙し、校運の拡張につれ、松本良順を招いたという点である。山東は和歌山の人、初め高野山に入り僧となったが、いくばくもなくして還俗し播磨の河野鉄兜の門に入り漢学を修めたが、のち函館に渡りロシア語を習得し、樺太開拓の急なるを説いた。明治の初め開拓官となり、間もなく柳田藤吉に乞われて北門社新塾の管理を任された。柳田の意志により、資金四万八千両を以て三年間子弟を教育することにしたから、勿論無月謝であった。入塾を志願する者が多かったので、初めに定めた開塾の期限を短縮し、僅かに二年間で閉鎖し、これを機会に四年神奈川県の参事官に転職した。後世この北門社新塾を以て、東京専門学校の前身であるとする者もあるが、たまたまその所在地が後の大隈の別邸の地に当るというだけで、別に何の関係もなかったのである。市島謙吉は、山東の転出後、「関新八が英学を教へた事もある。」(『随筆早稲田』三頁)と述べているが、関新八(尺振八)が明治三年英学塾共立学舎を開いたのは江東地区で、北門社新塾を受け継いだものではない。大隈は雑誌『新天地』(大正二年十月号之一)に、「不幸にも其学校〔北門社新塾〕は目的を達することが出来ず、荒野となつて居つたのを、私が別荘に買取つたけれど、未だ常住を致さなかつたのである。」(一一頁)と記しているのを見ても、我が学苑とこの塾とは、直接には何の連なりもなかったことが分る。

 なおここで一言つけ加えておかなければならないのは、従来大隈が、旧高松藩主松平頼聡からその土地を買い取ったということにされているが、前述の内ヶ崎の記事にもある通り、この地は一時三井家の手に移り、のち荒蕪地になっていたものを、大隈が柳田から買い取ったものであろう。

 すなわち明治二十年六月一日付で、私立東京専門学校長大隈英麿が、東京府知事高崎五六へ提出した「私立東京専門学校諸規程取調書」中の「位置及ヒ敷地建物」の項には次の如き記載がある。

一 位置ハ南豊島郡下戸塚村六百四十七番地

一 敷地ハ同六百三拾七番地ヨリ六百四十九番地ニ至リ段別五段壱畝拾歩此坪数一千五百四拾坪

一 本校ハ借家借地ニ有之候 (『東京専門学校校則・学科配当資料』 資料19)

とあり、別にその区画ならびに建物配置図(四四八頁第一図)が添付されている。ただしこれには建物合計六百五十九坪と記されているが、敷地面積は明示されていない。尤もこれは前掲の第二項に明らかにされているから、再記する必要がなかったからであろう。

 ところでここに言う六百三十七番地から六百四十九番地に到る十三筆は、市島が「昔井伊侯の所有地であつたと聞いてゐる」(『随筆早稲田』三頁)と記しているが、明治十五年三月十一日に、大隈重信が相良剛造および山本治郎兵衛の両人から買い取った南豊島郡早稲田村、同牛込村、同下戸塚村、同中里村の内にある三百五筆、この代金四千九百八十三円十六銭八厘の中に含まれている。従って上掲の東京府知事への上申書にある通り、学苑創立当時、校舎および付属建物ならびに敷地は大隈家から借りていたということになる。しかし同上申書中の二十年の歳計概況によると、借家賃は千二百円となるが、借地料は支払われていなかった。大隈の寄附を辞退し、学費値上げによって自立した当時としては、借家賃だけでも大きな負担であったことは間違いない。

 また先に記された松本良順は、幕府の侍医松本良甫の養子で、後年順と改名した。伊東玄朴らについて西洋医学を修め、のち幕府の命によって長崎に行き、オランダの軍医ポンペ(Pompe van Meerdervoort)について更に西洋医術を習得し、日本最初の洋式病院長崎養生所を長崎に開設した。維新に際し、幕軍に投じたかどにより一時投獄されたが、のち許され、明治三年十月、「帝都最初の病院である早稲田蘭疇醫院」を開設した。鈴木要吾によれば、その敷地は、「現在の大隈邸〔今日の大隈会館〕と道路を隔てて早稲田大学出版部、早稲田中学、早稲田実業学校を含む鶴巻町の一部、馬場下町、犬養邸(四谷に移る以前)のあつた所までの一帯の地域である。」(『蘭学全盛時代と蘭疇の生涯』一五四頁)という。「太政類典」に、明治四年五月「早稲田仮病院建設」と記載されているのは、この蘭疇病院を、兵部省病院御用掛(同年八月には軍医頭、六年には陸軍軍医総監となる)となった松本から政府が借り受けたものであった。なお、山東一郎と松本との関係については、内ヶ崎の記述(四二五頁)が正鵠を射ているか否かに疑問もあり、三万坪に及ぶこの敷地に関しても、鈴木要吾の如きは、「内容実に紛糾を極めて居て、相良剛造〔明治七年病院敷地買受人〕の裏に大隈があり、山東の陰には三井組が綾吊つて居り、地上権としては山瀬〔正己〕資生堂〔銀座資生堂の本店〕の本尊として松本がある。改進党の新進星亨、沼間達が〔山東の〕代言人となり、混沌錯綜乱麻の迷宮であつた。」(『蘭学全盛時代と蘭疇の生涯』一五八頁)とまで極言していることを付記しておこう。

 ところで松本は非常に多趣味な人で、それについては、高田早苗が、

専門学校の開ける以前に早稲田で一番名高かつたのは、松本順といふお医者さんの家であつた。此人は西洋医学の大先輩の一人で、今の石黒忠悳さんなどよりも一層の先輩であつたかと思ふ。此人は当時西洋医として有名であつたのみならず、磊落不覊の性質であつた様で、社会の各方面に交際が広く、殊に演劇界、花柳界などの男女から早稲田の御前と言つてもてはやされた人であつた。団十郎や菊五郎は勿論の事、富貴楼のお倉、武田屋のかみさんなどの連中は数々此の松本邸に伺候した様である。大隈さんが雉子橋から移転後は早稲田と言へば大隈さんの領分の様に世間で思ふ位になつたが、其の以前には松本さんの領分の如く世間に響いて居たのである。尚ほ此の松本順といふ人は、陸軍に於ける最初の軍医総監であつたと記憶する。松本さんは晩年頻りに海水浴の効能を主張されて、大磯の海水浴はこの人によつて開かれたのである。東京専門学校が開けた前後其人は物故され、其屋敷は後に犬養毅君の邸宅となつた。 (『半峰昔ばなし』 一一三―一一四頁)

と語っている。この他西洋料理三河屋を神田美土代町に開かしめたり、写真業を盛んにならしめたり、また専門の医学の立場から、牛乳の摂取を奨励し、海水浴の励行を勧めたりしている。このような点を勘案すると、かかる僻地に病院を作ったということも、単なる偶然ではなかったのかもしれない。なお、松本順が七十四歳で没したのは明治四十年で、この点の高田の記憶は正確でない。

 それはともかくとして、大隈の所有地が早稲田にあったればこそ、やがて東京専門学校がここに起り、早稲田大学に発展して、早稲田の名が世界に周く知られるようになるのである。